大判例

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福岡高等裁判所 平成5年(ネ)726号 判決

控訴人

髙田モトエ

髙田千鶴子

髙田和浩

古賀美穂子

髙田秀也

椛島アケミ

右五名訴訟代理人弁護士

椛島敏雅

被控訴人

福岡高等検察庁検事長

栗田啓二

主文

一  原判決を取り消す。

二  亡髙田猛(本籍福岡県柳川市大字間四一八番地。明治三九年一〇月二二日生。昭和三五年六月一七日死亡)が亡髙田ヤク(本籍福岡県柳川市大字間四一八番地。明治一四年一一月一四日生。昭和三二年七月一八日死亡)の養子であったことを確認する。

三  訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。

事実及び理由

第一  申立

控訴の趣旨

主文と同旨

第二  事案の概要

一  証拠によって認められる基礎事実

1  大正二年三月三一日、亡髙田卯吉(明治一二年二月二〇日生。亡父にして前戸主である髙田儀三郎の長男。本籍福岡県三潴郡久間田村―後に柳川市となる―大字間四一八番地。昭和二四年二月五日死亡。以下「亡卯吉」という。)は、

(1) 亡髙田ヤク(本籍福岡県柳川市大字間四一八番地。明治一四年一一月一四日生。福岡県三潴郡久間田村大字間四一三番地の木原作之平、同チカの三女。戸主木原鹿蔵の妹。昭和三二年七月一八日死亡。以下「亡ヤク」という。)との婚姻の届出をし、かつ、

(2) 亡髙田猛(本籍福岡県柳川市大字間四一八番地。明治三九年一〇月二二日生。福岡県三潴郡久間田村大字間四一三番地の戸主木原鹿蔵、妻ツルの三男。昭和三五年六月一七日死亡。以下「亡猛」という。)との養子縁組の届出をした。

(甲一、二号証)

2  昭和三三年に編製された亡猛の戸籍には養父として亡卯吉の記載はあるが、亡ヤクとの養子縁組についての記載はない。

(甲三号証)

3  控訴人髙田モトエは亡猛の妻、控訴人椛島アケミは亡猛と控訴人髙田モトエとの間の三女、控訴人髙田千鶴子は亡猛と控訴人髙田モトエとの間の長男清彦の妻、控訴人髙田和浩、控訴人古賀美穂子及び控訴人髙田秀也は右清彦と控訴人髙田千鶴子との間の子である。

(甲三号証)

二  控訴人らの主張

大正二年当時も配偶者のある者が未成年者を養子とするには配偶者とともにしなければならないという法制であったから、亡猛は亡ヤクとも養子縁組をしていたのは明らかであり、実体としても亡猛は亡卯吉と亡ヤクの養子として成育し、周囲の血縁者は誰もこれを疑わなかった。戸籍に亡猛が亡ヤクの養子であった旨の記載がないのは戸籍官吏の過誤によるものである。

第三  証拠

原審及び当審記録中の証拠関係目録記載のとおりであるから、これを引用する。

第四  判断

一  亡卯吉を戸主とする戸籍謄本には二種類あり、昭和二二年に改製されるまで用いられた戸籍謄本(甲一号証)の亡卯吉の身分事項欄は明治二六年一二月二一日(亡卯吉は一四歳)に相続した旨の記載で始まり、その後に亡ヤクとの婚姻届出の記載が続くが、亡猛との養子縁組の記載はなく、最後に昭和二二年一二月一日改製につき本戸籍を抹消するとの記載がある。亡卯吉の次に姉髙田ツル(明治九年生。亡父儀三郎の長女。明治二九年に後記の木原鹿蔵に嫁いだ。)の欄が続き、その後に妻亡ヤクの欄があり、その身分事項欄には亡卯吉との婚姻の記載があるのみで、亡猛との縁組の記載はない。妻亡ヤクの欄の次に養子として亡猛の欄が設けられ、これには「大正二年三月三一日木原鹿蔵の三男養子縁組届出同日受付入籍」との記載があるものの、亡ヤクとの縁組の記載はなく、また、亡猛の名の欄の右側は空白であり、養親はもとより実父母の氏名の記載もない。

昭和二二年の改製により新たに作られた戸籍謄本(甲二号証)の戸主亡卯吉の身分事項欄には、前記相続及び亡ヤクとの婚姻の記載に続いて昭和二二年一二月一日本戸籍を改製するとの記載があり、その後死亡と除籍の記載があり、最後に昭和三三年九月一七日改製につき本戸籍を消除するとの記載がある。亡卯吉の次に妻亡ヤクの欄が続き、その身分事項欄にも亡卯吉との婚姻の記載があるのみで、亡猛との縁組の記載はなく、ただ死亡の項の中に「同居の親族髙田猛届出」との記載があるのみである。亡ヤクの欄の次に養子として亡猛の欄があり、その身分事項欄に「木原鹿蔵三男髙田卯吉と養子縁組届出大正二年三月三一日受付入籍」という記載はあるが、やはり亡ヤクとの縁組の記載はない。しかし、戸籍用紙の亡猛の名が記載された欄の右側には、あらかじめ印刷された罫線によって画され、「父」、「母」と不動文字で印刷された欄が設けられており、これには父母として木原鹿蔵、ツルの氏名とその続柄(三男)が記入されているが、その左隣りに手書きで罫線が引かれ、「養父」、「養母」という手書きの文字が記された欄が作られており、そのうちの「養父」の欄に亡卯吉の氏名が記入され、続き柄として「養子」と記入されてはいるものの「養母」の欄は空白のままであり、何も記載がない。

「昭和三二年法務省令第二七号により改製。昭和三三年九月一七日髙田卯吉戸籍から本戸籍編製」という冒頭記載のある亡猛の戸籍謄本(甲三号証)には、父木原鹿蔵による出生届出の記載に続き、「髙田卯吉の養子となる縁組届出大正二年三月三一日受付木原鹿蔵戸籍より入籍」との記載があり、亡猛の名の欄の右側には「父亡木原鹿蔵、母ツル三男」と記載され、その左隣りには「養父髙田卯吉養子」との記載があるのみで、亡ヤクとの養親子関係の記載はない。

以上のとおり、戸籍上、亡卯吉と亡猛の養親縁組の記載はあるが、亡ヤクと亡猛の養子縁組の記載は一切なく、亡卯吉と亡ヤクの婚姻届出と亡卯吉と亡猛の養子縁組届出は同じ日付でなされており、その先後関係は戸籍の記載からは不明である。

二  明治三一年に施行された旧民法においても「配偶者アル者ハ其配偶者ト共ニスルニ非サレハ縁組ヲ為スコトヲ得ス」(八四一条一項)という現行法と同様の規定があり、いわゆる夫婦養子制が採用されていたから、もし亡卯吉が亡ヤクとの婚姻届出後に亡猛との養子縁組の届出をしたのであれば、右届出は当然亡卯吉と亡ヤクを養父母としてなされたものでなければならない。しかし、養子縁組届出が婚姻届出よりも先になされたのであれば、養親は亡卯吉のみとしてなされ、したがって亡ヤクと亡猛の養子縁組はなされなかったこととなる。

明治三一年に施行された戸籍法に定められた戸籍簿の記載は家を戸籍編製の単位とし、戸主を中心としたものであり、記載の順序は第一に戸主、次に戸主の直系尊属、次に戸主の配偶者、次いで戸主の直系卑属を記載し(同法一九条)、家族が養子であるときはその養親及び実父母の氏名、養子と養親及び実父母との続柄を記載すべきものとされた(同法一八条八号)。具体的な記載例としては、養子縁組により入籍した養子の身分事項欄に(養子となる者が一五歳以上の未成年者である場合と一五歳以下である場合とを区別せず)例えば「明治○○年○月○日○○村○番地甲野太郎次男養子縁組届出同日受付入籍」と記載し、一方、養親の身分事項欄には何も記載しない例であった。

昭和二二年の改製前の戸籍である甲一号証の大正二年届出による本件の養子縁組及び養子である亡猛の欄の記載は明治三一年施行の旧戸籍法によってなされたものであり、養親である亡卯吉の身分事項欄に何ら養子縁組の記載がないのは当時の戸籍の記載例にしたがったものと認められ、仮に亡ヤクと亡猛との養子縁組の届出がなされていたとしても、同様に亡ヤクの身分事項欄にも記載はなされなかったこととなる。

しかし、前述のとおり、戸籍法の規定によれば、養子の欄には実父母の氏名及び続柄とともに養親の氏名が記載されなければならず、これによって養子縁組の当事者を明示する扱いであった、然るに、甲一号証の戸籍の亡猛の欄には養親のみならず実父母の氏名等の記載もないのであり、これと婚姻届出と養子縁組届出がまったく同じ日付であることとが相まって、右戸籍の上からは亡卯吉と亡ヤクが夫婦共同して亡猛を養子としたのか、それとも亡卯吉が婚姻前に単独で養子縁組をしたのかは判明しない結果となっている。しかし、亡猛の実父母が前記木原鹿蔵とツルであり、少なくとも亡卯吉が亡猛の養父であることは自明なのであるから、戸籍係において実父母の氏名、続柄及び養父である亡卯吉の氏名を記載することが可能であったことは明らかであり、また、養子縁組の届出が不備であったために亡ヤクと亡猛の縁組の届出があったのかどうかが一見して明確ではなかったとしても、問い合わせのうえ不備な届出を適式なものに改めさせるのは別段困難なことではなかったと推定される。それにもかかわらず、実父母、養親の氏名がともに記載されなかったのは戸籍係の過誤によると考えるほかはない。

三  右甲一号証の戸籍は昭和二二年の改製により甲二号証の戸籍に移行したが、甲二号証の改製戸籍の亡猛の欄には実父母の氏名(木原鹿蔵、ツル)及び続柄(三男)の記載があり、養父として亡卯吉の記載はあるものの、養母の欄は空白であり、何も記載がない。しかし、これは、改製戸籍の編製にあたった当局(当時は久間田村村長)が、亡猛と亡ヤクとの間には養子縁組は成立していないと判定したためと推定することはできない。というのは、前認定のとおり、甲二号証の改製戸籍の亡猛の「父母」の氏名を記入すべき欄の左隣りに手書きの罫線によって画された欄が設けられているところ、これには同じく手書きの文字により「養父」、「養母」という標題が記入され、「養父」の欄には亡卯吉の氏名が記入されているが、「養母」の欄は空白のまま残されているのであり、もとの戸籍の記載や職権による事実調査の結果、養子縁組は亡卯吉との間だけでなされ、亡ヤクとの間では成立していないと認定されたのであれば、初めから「養父」の欄だけを付加し、これに亡卯吉の氏名を記入すれば足りたと考えられるからである(昭和三三年に再び改製され、新たに編製された亡猛の戸籍―甲三号証―になると、亡猛の欄の実父母の氏名と続柄を記載した欄の左隣りには「養父髙田卯吉」の欄しか付加されていない。)。然るに、「養父」の欄とともに「養母」の欄が作られながら空白のまま残されたということは、もとの戸籍に養親の記載がなく、亡ヤクと亡猛との間に養子縁組が成立したのかどうか、その届出がなされたのかどうか不明であったため、これについて調査がなされたが、結論を得られずに保留のままとされたか、または、何らかの事情により調査を行うこと自体が保留されたか、ないしは、調査の結果亡ヤクとの養子縁組が届け出られていたことが判明したにもかかわらず、単なる過誤のため亡ヤクの名が記入されなかったかのいずれかであろうと推定される。このうち、当時存命中であった亡卯吉及び亡ヤクからの事情聴取が実施されていたとすれば、両名と亡猛との養親子関係の実体はあった(亡卯吉と亡ヤクの夫婦が存命中に亡猛と結婚した控訴人髙田モトエの陳述書―甲五号証―によりこれを認める。)のであるから、両名が亡ヤクが養子縁組をしたかどうか、その届け出をしたかどうかについて不明である旨の回答をしたとは考えられず、むしろ積極的にこれを肯定したと推定され、このような回答があった以上よほどの事情がない限り真偽不明として保留扱いにされたとは考えられないから、第一の可能性が事実に合致している確率は低い。また、疑義を生じて調査した結果亡ヤクとの養子縁組が成立していたと判明したとすれば、これを戸籍に記載するのを失念するというようなことはあり得ないと考えられ、したがって第三の可能性は排除すべきである。そうすると、残る可能性は第二のもののみとなる。

いずれにしても、以後、戸籍上は亡ヤクと亡猛との間には養親子関係はないものとして取り扱われ、前認定のとおり昭和三二年七月一八日に亡ヤクが死亡したときの戸籍の身分事項欄に死亡を届け出た亡猛の続柄として、養子ではなく、「同居の親族」と記載されたのもこの取扱によるものと認められ、また、昭和三三年の改製及び編製による亡猛の戸籍の記載内容及び方法に照らし、右改製及び編製にあたった当局は、養親は亡卯吉のみであり、亡ヤクとの間に養親子関係はないという認識であったことがうかがえる。

なお、昭和二二年の改製後、まだ存命していた亡卯吉、亡ヤク及び亡猛が戸籍謄本の交付を受け、その結果亡ヤクと亡猛とが養親子関係にないように記載されていることを知った可能性はないとはいえず、もしそうであれば、何ら戸籍訂正の手続が取られず、または改めて養子縁組の届出がなされなかったのは、実体としても養子縁組が成立していなかったためではないかという推測が働く。しかし、同人らが戸籍謄本の交付申請をする機会がまったくなかったという可能性ももとより否定できないから、右推測に基づいて事実を認定することはできない。

四  ところで、甲一号証の戸籍の記載によれば、亡卯吉は明治二六年、一四歳のときに父儀三郎の死亡により高田家の戸主となり、このとき亡卯吉を戸主とする戸籍が編製されたが、その当時家族は姉ツルしかいなかったため、次順位の戸主候補者として亡卯吉の欄の次にツルが記載され、ツルは明治二九年に木原作之平の長男鹿蔵の妻となって除籍され、以後髙田家の戸籍には亡卯吉一人が残り、亡猛は満六歳のときに子供のいなかった亡卯吉の養子とされたという経緯であったことが分かる。一方、亡卯吉は前記木原作之平の次女である亡ヤク(亡卯吉からすると姉ツルの夫木原鹿蔵の妹にあたる。)を妻としたが、婚姻届出のときには亡卯吉が三四歳、亡ヤクが三二歳といささか適齢期を過ぎており、かつ、実体としても届出のころに婚姻が成立したとすれば、その後亡卯吉と亡ヤクとの間に実子が生まれることは予想されたであろうから、この時点であえて養子をもらう必要はなかったと考えられることに照らし、亡卯吉と亡ヤクとの婚姻関係は右届出より以前から実体としては成立していたが、その間に子供が生まれなかったため、髙田家の跡取りとして亡卯吉の姉ツルと鹿蔵との間の子である亡猛を養子とすることとし、亡ヤクの入籍と同時に養子縁組の届出をしたものと考えられる(控訴人髙田モトエの前記陳述書中にはこの推測と合致する事実の記述がある。)。そうであれば亡卯吉と亡ヤクの両名が夫婦として亡猛を養子とするのが極めて自然な成り行きであり、これに対し、当時の家督相続の法制に鑑み、亡猛が亡ヤクの養子として相続人となる可能性を排除しておく必要があったとは考えられず、その他、亡卯吉が意図的に亡猛を自分一人だけの養子とし、そのうえで亡ヤクを入籍するという形での届出をしなければならなかった特段の事情はなかったと認められ、したがって、実際になされた届出は亡卯吉と亡ヤクが夫婦で亡猛を養子とするというものであったと認めるのが相当である。

五 以上検討したとおり、現行の戸籍上亡猛と亡ヤクとの間には養親子関係はないという記載になっていることのおおもとの原因は甲一号証の戸籍に養親として亡ヤクの記載がなされなかったことにあり、かつ、これは当時の戸籍係の過誤によるものであったと認められ、実体上は亡卯吉と亡ヤクは夫婦として亡猛を養子とする届出をし、これが戸籍係に受理されたことにより亡ヤクと亡猛との間にも養親子関係が成立していたのに、戸籍係が亡卯吉を戸主とする当時の戸籍の亡猛の欄に養親の記載をすることを怠ったため、戸籍上は亡ヤクと亡猛の養親子関係は存否不明となり、その後の二度にわたる戸籍改製及び編製の際に右養親子関係はないものとして取り扱われ、現在に至ったものと認められる。

六  よって、控訴人らの本訴請求は正当であるから、これと異なる判断をした原判決を取り消したうえ、右請求を認容することとし、民訴法九六条、八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 緒賀恒雄 裁判官 池谷泉 裁判官 川久保政德)

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